村山由佳『風よ、あらしよ』は今の時代に読むべき一冊

伊藤野枝が主人公の評伝小説であり、評価の分かれるむずかしいテーマに果敢に挑み、史実を丹念に調べられた上に、小説としても感動的な仕上がりになっている。NHK大河ドラマになりそうな圧倒的な物語を紡いだ村山由佳には心から敬意を表して、いつまでもいつまでも拍手をしたい思いです。

 

伊藤野枝の生い立ちや、大杉栄との関係、日蔭茶屋事件にいたる経緯などは丁寧に複眼的に描き出されている。この物語に登場する平塚らいてう有島武郎荒畑寒村などのビッグネームもキャラが立っていてすばらしいが、大杉栄をめぐる名もない女たちの心理描写はさすがである。堀保子も、神近市子も、野枝と同じかそれ以上に個性的で魅力的な女性としてそれぞれを描き出した。村山由佳でなければこの小説は書けなかっただろうとつくづく胸に迫った。誰も悪くないという恋愛の本質を問うている。伊藤野枝はこのとき前夫の辻潤とふたりの幼子を棄てて大杉栄とパートナーになるのだが、いまだにこの負の歴史をもって伊藤野枝を嫌う人が多い。多情とか淫乱とか。村山由佳はこの事実にも恐れず筆を入れる。深く掘り下げていく。そして最後に村山由佳は、村木源次郎の回想の形で一定の解を示す。それは「信じていた相手から今さら何を言われても、死んでしまっていては反論できない」伊藤野枝の魂が、時を超えて、村山由佳に降りてきて、憑依して語らせているようにさえ感じられた。

 

「しかし今になって鮮やかに思い出されるのは、野枝がかつて語った故郷の〈組合〉の話だ。・・・(略)・・・規約もなければ役員もいない、あるのは困ったときは助け合うという精神のみ。集りの際の金勘定も、葬式も、道からはずれた者を諭すのも、どれもこれもみんなでする。組合からつまはじきにされる恐怖心が抑止力となり、それ以前に基本的には各々が他へ迷惑をかけまいという良心に従って動くから、上からの命令や監督は必要ない。役場も警察もほとんどいらない」

 

伊藤野枝は、大杉栄が獄中に囚われている最中に、ふるさとの共同体の有り様をこのように述べて、かつては毛嫌いしていたその共同体のようなものをこの国のいたるところに作りたいのだと語ったのだ。それは伊藤野枝の思想である。大杉栄や同志たちの無政府主義社会主義とも違う彼女の思想なのであった。伊藤野枝は伴侶である大杉栄の付属物であり、大杉栄の思想に「かぶれていたかわいそうな女」という評価さえも、断固として拒否する。あくまで同志として生き、たたかい、死んだのであった。そもそも男に忠実な女であったなら、前夫の辻潤とわかれることもなかったであろう、と村木源次郎は思い出す。足尾鉱毒被害でふるさとを追われる谷中村の農民たちに心を痛める野枝に、辻潤は「無駄なことを考えるな」と冷静に諭したことが別離の決定的な動機なのであった。そもそも、大杉栄は、理論よりも行動、知識よりも精神こそが尊い、そういう考えを貫いていたから、野枝は大杉ならわかってくれると賭けたのだ。果たして、そんな大杉栄は、胸を揺さぶられ、己を省察させられ、焦がれるように惹かれた。伊藤野枝の思想性に他ならなかったのである。

 

伊藤野枝。たぶんこういう女性が今はたくさんいる。だが、伊藤野枝の時代にはいなかったのだ。彼女が日本史においてはじめて登場した女性の思想家であり、革命家であったのだと思う。あまりに人間臭いが、真正の革命家のひとりだった。

 

今、この国には、大杉栄伊藤野枝が生きていた時代の日本のような形へと復古的に先祖返りしようという変化がおこりはじめている。コロナという未曾有の国難に際して、民草の命や生活をないがしろにする政府・権力者たちが、オリンピックと改憲を強行しようとしている。街から明かりが消え、たくさんの命の灯が消えていく中で、聖火リレーの火だけがスポンサーたちの饗宴に守られながら、全国をかけまわる。オリンピックはおそらく国家有事とアナロジーされているのだろう。灯火管制、外出禁止、さらには看護婦を500人も無料で勤労奉仕させようとか、東京都内の小学生たちを81万人も「動員」しようとか、このチャンスを逃さずに「私権制限」をいっきに通常の国の形へと変えようとしている。まさに関東大震災にいたる情勢によく似ていないだろうか。多くの日本人はこの大きな動きに沈黙しているが、そして「危険思想」を差別して毛嫌いするだろうが、大杉栄伊藤野枝は殺される間際にも、はっきりと言っている。さんざんひどい目にあわされてきた野枝は、恐ろしい憲兵隊の甘粕に向かって堂々と叫ぶのであった。

 

「本当に私たちがこんな国なんかどうなろうとかまわないと思っていたなら、自分の命を危険にさらしてまで運動を続けようとするはずがないじゃありませんか。そうでしょう?・・・考えていますとも。天下国家じゃなく、民草ひとりひとりのことを!」