虚構と現実のバランス。吉田修一「湖の女たち」(新潮社)

パークライフ」から吉田修一さんのファンである。もちろん、全部の作品を好きなわけではないが、ストーリーの仕掛けや、人物や背景の描写など、大好きである。新刊が書店にあると買い求めるのだから、僕は立派にファンだといえると思う。

 

さて「湖の女たち」であるが、題名は大切だ。まるで一昔前のサスペンス・ドラマみたいで、見た瞬間に嫌な気持ちになった。最後はヒロインが愛憎の感情をみんなの前で独白して湖に身を投げて、主人公の刑事が「生きなきゃダメだ!」とか正論を涙ながらにイキって熱く抱擁、手錠、みたいな展開をはやまって予想してしまったが、ま、吉田修一さんがそんな小説を書くはずはない。気をとりなおして読んでみた。

 

当たらずも遠からず。礼儀としてネタバレはしたくないから、ストーリーは言いませんけれどもねえ!

 

2店だけね。第1に、東近江市えん罪事件。昨2010年3月、殺人罪で懲役12年の判決を受けていた湖東記念病院の元看護師・西山美香さんが、苦闘の末、再審を勝ち取り、ついに無罪が確定した。昨日、国家賠償請求訴訟の第一回口頭弁論(滋賀地裁)で、西山さんは検察や県警の無反省と、えん罪を生んでいく構造的な問題を、社会全体に対して訴えた。ひとりの人間から長い時間と人間の尊厳、社会的な人間関係、すべてを奪い尽くした滋賀県警と検察の罪は裁かれなければならない。この筆舌に尽くせない魂をつぶされていくような屈辱に耐えてきた彼女の言葉は重い。それも仕事だから仕方ない、という理由で警察や検察は正当化し、また西山さんの請求に棄却を求めているが、それが許されていくような世の中であることが実にくやしい。吉田修一さんの思いもおそらく同じなのであろう。

 

仕事だから、という理由で公文書を改竄したり(させたり)、国会の場で嘘の証言を繰り返した公務員は、仕事を忠実にやったご褒美で退職金ももらって悠々自適の老後を送っている。仕事として、総理大臣とその奥さんの保身のために、犯罪に手を染めるしかなかったこの公務員の部下は、自殺した。仕事とは何なのか?きれいごとを言うつもりはないが、この赤木さんの死という重すぎる事実にも、安倍晋三・昭恵や、麻生太郎と佐川は、いまだに眉一つ動かすことなく、あざ笑って、のうのうと生きていて、こんな連中を守るために必要な証拠を国家が組織ぐるみで隠ぺいし、隠滅をはかる。遺族の訴えも聞くことはない。

 

今の日本の現実は、残念ながら、そんなものだ。だが、吉田修一さんは、そんなことを言っているわけではない。はっきり言っておく。吉田修一さんは、作品のなかで政権批判などはまったく、していませんからね。ただ、読み手(おれさま)が勝手に日本国家にたいする怒りを彷彿とさせているだけだから。権力者と「ふつうの愛国者」の諸君、まちがえないでね。攻撃するならこちらへどうぞ。

 

第2に、第二次世界大戦時、中国の東北に日本がでっちあげた満州という国家での戦争犯罪が、モチーフのひとつになっている。これもすべて史実ではなく、吉田修一のフィクションの素材である。中国人を「マルタ」と呼んで酷たらしい人体実験を繰り返した科学者たちのやった歴史的事実を告発しようとするわけではない。むしろ、その当時は、それが善良な日本人としての「仕事」だったのだ。

731部隊

身の毛もよだつ残虐な行為に手を染めたひとりひとりに照準を絞り込めば、その人々は家族や妻を愛するまじめな研究者である。彼らが、戦後も罪に問われることなく、平和な日本をつくる権力の一角で贅沢な生を享受してきた。万死にあたいする人々が、死をもって償うことはなく、むしろその死は被害者として殺人犯を求める。命は等価ではないのか。少なくとも、日本という国では。

 

吉田修一「湖の女たち」は、こんなさまざまな問いを与えてくれるのだが、そのすべてが消化不良なのである。もし、これらの問いに形を一定でも与えたなら、またそれは政治主張となって、極論と極論の分断と対立をまねくだけだろう。だが、そこから、逃げるなら、これらのモチーフを使うのは安易だったのではないか? 作品には作品の命がこめられるべきだ。現実におこりうる社会の風潮や波風や、愛国者さまたちからのクレームや炎上や、そんな想定される雑音とストレスをあらかじめ回避することをこころがけながら描くくらいなら、はじめから書かないでほしい。琵琶湖のまわりで自然に親しみながらSMプレイの快楽に興じる中年男女のエロ小説で良かったのではないだろうか? 誤解のないように、最後に付言させていただく。僕は、吉田修一さんの大ファンである。

f:id:nyanke:20210304160851j:plain

吉田修一「湖の女たち」(新潮社)